渡辺京二『日本近世の起源』9
2015-02-22


日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/弓立社

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第四章 山論・水論の界域

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 つまり村落は愛国主義の初発の温床だったのだ。石井進は中世惣村の「共同体的性格の強固さ」を、「いわば『村のためには死んでくれ』ということのできる団体」というふうに表現している。この初発の愛国主義(パトリオテイズム)は、やがて近代国家によって組織されるとき、「お国のためには死んでくれ」という民族主義(ナショナリズム)に転化し、同時に排外主義(エスノセントリズム)に帰結するだろう。だが、それはまだ先の話だ。

「村のためには死んでくれ」と成員に強制できる惣村の愛郷主義は、合戦の場合ばかりでなく、領主権力に人質や各人を差出す場合にも貫徹した。元亀元(一五七〇)年、近江神崎郡伊庭の「惣中」は信長に差出していた人質三名のうち一人が重病に陥ったため、代りの人質を出さねばならぬことになったが、誰一人申し出る者もなく困り果てているところ、助石衛門尉という男ひとりが志願した。惣中は助右衛門尉の「惣中へ別けての忠節」に対し万雑公事の永代免除をもって酬い、「この助右衛門の家に対する村のかかり物一切の免除は明治に至るまで続き、村ではこれにだれも故障をいわなかった」という。

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 このように村の犠牲となって命を棄てねばならぬ場合のひとつにいわゆる解死人(下手人)がある。勝俣鎮夫によれば、これは「喧嘩などにより人が殺された場合、被害者の所属する集団は、加害者の属する集団に下手人の引渡しを要求し、この下手人の差出によって和解するという慣習」であるが、この場合差出される人間は実際の犯人でなく、その犯人の属する集団の成員なら誰でもよかった。

解死人には童・女性・老人が立つ場合が多く、その場合処刑されることはなかったというが、注目すべきなのは村内に居住する乞食が立てられ、その場合村の身代りとして死ぬかわりに子孫を村の正式の成員として遇するという褒賞が与えられていることである。乞食は領主に差出す各人の代りにもされた。

摂州鳴尾村と瓦林村の出人りで八十三名の処刑者を出した事件でも、それぞれの村を代表して処刑されたのは庄屋自身ではなく、村に養われた乞食が身代りとして差し出されたのである。その乞食の一人仁兵衛は身代りになる代償として、子孫を村の年老に列してほしいと要求し、惣中から証文を得たという。

藤木久志は言う。「中世の村はイザという時の身代りに備え、村の「犠牲の子羊(スケープ・ゴート)」を、ふだんから村で養っていた様子である。その多くは、名字もなく、ふだんは村の集まりにも入れない、乞食などの身分の低い人々や、牢人と呼ばれた流れ者たちであったらしい」。

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 戦後左翼史学が「自立」した中世惣村として賞めそやして来たものの実体は、自分のテリトリーを主張しつつ他村と激烈な武闘に及ぶような武装した主権団体であった。藤木久志はそのような「自力」の遂行が要求する物質的負担、合戦や訴訟に要する過重な費用による惣財政の窮迫を指摘し、「あいつぐ戦火による死傷・焼亡の惨禍をもあわせて、惣規制下の村落諸階層が自ら負わねばならなかった共同の被害の深刻さは、計り知れないものがあったことになろう」と述べている。それは実に「中世の土着の世界を支配する自力の法のもたらす惨禍」なのであった。


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