渡辺京二『近代の呪い』第二話 西洋化としての近代 1
2015-01-29


『近代の呪い』渡辺京二/平凡社新書

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第二話 西洋化としての近代…岡倉天心は正しかったか

世界を制覇した西洋文明

063p
 このことは、世界中のひとりひとりの人間が、特定の国民国家の一員として存在する事実のうちに、さらに明確に表われております。ひとりの人間が参政権・生存権・教育権を国家から保証されるかわりに、納税と防衛の義務をもつというありかた、つまりひとりひとりの人間が国民という存在形態をとらねばならぬという事態は、ナポレオン戦争以後ヨーロッパで生まれたのです。

そして、そういう国民国家がいったんヨーロッパで生まれると、他の地域の国々も競ってそれを模倣して、国民国家の建設にいそしまねばならなかった。そうしないと、新たに形成されたインターステイトシステム、つまり国際社会において悲惨な境遇に陥らねばならなかったからです。これがつまり、世界が西洋化される根拠であったのです。

経済化された世界

064p☆
 国民国家の実質はむろん資本主義であります。資本主義的生産様式が人びとの生活に画期的なゆたかさをもたらしたからこそ、国民国家的統合が可能になったといってよいのです。

アンガス・マディソンというイギリスの経済学者によりますと、人類の一人当りGDPは西暦元年には四〇〇ドルであり、これは西暦一〇〇〇年まで変化しなかったそうです。つまり一千年間ゼロ成長だったのです。これは技術的進歩によって生産がふえたとしても、すぐに人口の増加によって喰いつぶされるからなのです。

一〇〇〇年から一八二〇年までの間に、わずかな成長があって、一八二〇年には一八〇〇ドルに達しました。といっても八百年余でわずか二〇〇ドルの成長です。しかし、一八二〇年以降急激な成長が生じ、二〇世紀末には六〇〇〇ドルを超えるに至りました。

セルジユ・ラトゥーシユと岡倉天心

067p
 今日の経済の異様な肥大ぶりは、逆に脱経済成長主義という思潮を世界的に生み出していますが、フランスの代表的な脱経済成長論者のセルジュ・ラトゥーシュは『経済成長なき社会発展は可能か?』という著書の中で、飽くなき開発と経済成長を追求する「経済化された世界」をもたらしたものは、進歩・普遍主義・自然支配・事物を数量化する合理性という西洋的価値であり、現実を経済のみの観点からとらえようとするのは西洋特有の傾向だと主張しています。

 ラトゥーシュの脱成長主義は、より少ないモノで満足し、より少なく労働し、自然と仲間との交わりにおける共愉(コンヴィヴィアリティ)を重視する生活スタイルを提唱するもので、具体的には経済を一九六〇年代の規模まで縮小することを目標にしています。

イヴァン・イリイチの影響は共愉という用語からして明らかで、まともに受けとって検討するに値する提唱だと思います。しかし、今日のような開発と経済成長の暴走、それによる自然と社会の破壊によってきたるところを、西洋が生んだ価値、つまりは西洋的思考の特性に帰してしまうのは、今日の異常な世界をもたらした元兇は西洋だという単純化につながらないでしょうか。

なぜ西洋モデルは普遍化したか

069p
 西洋が産んだものの考えかた、制度、生産様式、技術・設備が全世界を制覇して、普遍的な近代モデルとなりえたのは、何よりもまずそれが人類史上画期的な衣・食・住の向上をもたらしたからであり、しかも、その″ゆたかさ″が、国際社会において強力な国民国家を形成する方向においてしか実現しえなかったために(日本の近代化が富国強兵の形をとったのはそれゆえです)、近代的な国造りが全世界的スケールで、一種の緊急避難のような切迫した要請として立ち現われたからでした。


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